FAIRY

妖精さん、私はあなたがいるって信じてるよ。

大人になったってその思いはずっとずっと変わらない。

そんなのいやしないさって大人たちは言うけれど、それは忘れてしまっただけなんだ。

子供の頃には見えていたはずのものたちを。

会いたいと思ったらいつでも会えるのさ。

心の目で見ればいつでもね。

以前のブログもよろしくお願いします。

☆この「FAIRY]の記事は常にトップ記事にしてありますので、更新した記事はこの下から表示されます。

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2009年11月 6日 (金)

新しい時代へ

愛を見よ

愛を語れ

愛になれ

真理を見よ

真理を語れ

真理となれ

光を見よ

光を送れ

光になれ

「神は私にこう語った」アイリーン・キャディ(著)より

今私ができること。一人一人が心がけて出来ること。それは本当に身近なところに沢山ある。そう、それに気付けば今この瞬間から誰もが変わることができる。誰もが愛を抱き、光を送ることができる。変わることを恐れずに、愛の一員として生きる勇気を持とう。

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2009年10月25日 (日)

自分から見た私、他人から見た私

私の中に内在する怒り。それを赦すことが私の課題であると半年前にブログに書きました。その後も赦すことが出来なくて、心の中のどこかでずっと悩んでいました。そうして最近ようやく少しずつ見え始め、辿り着いたのが「個としての私」についてです。私が怒る時。それは他人から馬鹿にされたと感じる時、やりたいことが出来ないでいる時、思うように事が進まない時・・・私の心の中には本当は沢山の怒りが渦巻いています。本当はその怒りを見せまいとして必死だったりする時も多々あるのです。事実を少しでも愛の方向へと変化させたければ認めて受け入れればいいのです。だから私は怒りを抱いている自分を認め、赦すことから始めています。そして、私はこうありたい、こう他人から見られたいという固定観念を壊しています。私は自分は完璧でありたいと考えています。人からは尊敬されたいと本当は思っています。欲の在る、本当に平凡な人間なのです。今までは偉そうにする自分を人に見せるのがいけないことだという社会的な理由で表面上は低姿勢で人に媚びるような態度をとったりすることもありましたが、それはあくまでもカモフラージュにすぎないものでした。だから本当の私はとても傲慢な人間です。それが私のエゴの本性なのです。エゴは私が私であることを望みます。(エゴについては「ニュー・アース」という本に色々と書かれてます。この話題はまた今度にしようと思います)。これは良い、悪いと判断することではなく、自分を責める必要もなく、単にそうなのだと認めることが次の一歩を生みます。この2か月間はこの作業に久しぶりに泣きながら取り組みました。何の涙なのかはわからないけれど、悔しい、悲しい、怒り、色んな思いの涙だったのだと思います。

まだまだ過程なので「私という個」についてはよくわかっていません。でも、わかってきたこと、その過程だけでも書いておこうと思います。

この世界にはそれぞれの人がそれぞれに定義した「私」が存在します。こうである、こう在りたいという自分から見た自分の姿、こういう人であるという他人からの姿、そのどれもが全てそれぞれの人間の頭によって作り上げられた「私」という存在です。頭と心によって作られた「私」は幻想です。そして私はその幻想の「私」に対して怒っていたのです。自分の理想と他人が作り上げた「私」が違う、と。

では、本当の「私」とは何か?と考えると、その真実は「私は在る」ということのみです。それが全てです。何をしても、どんな性格であってもそれらは魂の表現にすぎず、その1つ1つはとても重要でありながらも、それらに縛られることなくまた「今」の私を表現し続けています。

私という個は、聖なる私と共にいることをいつも意識すること。在るために存在し、それは「今この瞬間」を生きることで表現することができます。

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2009年10月18日 (日)

「私」が存在する価値

私って何者?と自分自身に問うとしたら、なんて答えるでしょうか?名前や性別、年齢、職業、答え方は色々あります。

私の場合の答えは、自分は何者か?を問うと、それはまず自分は何のために生きているのか?からスタートしていました。明確にこのために生きている、存在しているという答えを見つけたくて、でもそれが見つからなくて焦っていました。つまり、私の場合は「何をしているのか、何を成し遂げたか」で自分の存在価値を決めていました。ですから結果が出なければ存在価値は無くなるのです。

でも、生命が存在しているということに意味は必要なのかと考えるようになりました。何かを達成し、目的を持って生きる。それが存在していることなのか。また、名前や性別や持っている物などが本当に人間の存在に付加価値を付けるのか。それらはみな、人間が意味のあることとしているだけで、本当は存在に価値を付ける必要すら無いと思うようになってきました。人間は色んなものに名前や価値を付けたがります。物を沢山欲しがります。やりたいことが色々あります。でもそれらは死ぬ時には全てこの世に置いていきます。置いていって何も持たない魂だけの状態、それが本当の私です。何かによって定義され、制限されるものではなく、ただ存在していることが私なのです。存在していること、それはとても幸せなことだと思います。

物は私達人間を豊かにしてくれるような気がします。けれども実際はどんなに物を持っても心は満たされません。それは自分という存在価値を無意識のうちに物に見出そうとしているからです。まだ足りない、まだ足りない、その思いを物で満たそうとするのです。でもそれは根本的な解決にはなりません。また、他人からの評価を気にすることも、他人から認められれば自分の存在価値が認められると思っていることになります。やはりそれも自分の存在を自分で否定しています。自分との対話なくして、物や出来事や他人への同一化に終止符を打つことは出来ないのです。物を持つことが悪いことなのではなく、物が自分に存在価値を与えているわけではないということを認識し、自分の存在を自分で認めて愛してあげればよいのです。

しかし、定義されず、名前すら無いということは、他の物(者)と区別されないということにもなります。この世に存在している時は定義されていますが、本質は色々くっつけたものたちを取り払った魂の状態。光みたいなイメージが私にはあるのですが、「私」という「個体」の存在とは特殊な状態のような、なかなかまだ説明できないのですが、最近では私が私個体として存在していることが不思議に思うことがよくあるのです。このことはいずれわかる時が来るかもしれないということで、保留しておこうと思います。

全ては生かされている存在です。存在しているということは素晴らしいことです。在るという状態は自由であり、何者(物)にも定義されず、制限されず、宇宙と一体になって愛を表現する機会を与えられている状態です。私は何者か?その問いを自分に投げかけ、自分と対話することで本当の自分の姿を思い出すという作業をこれからも続けていこうと思います。

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2009年10月 6日 (火)

ノクターン

Love, true love is to ask nothing in return

You are my destined soul mate

Your love, adoring eyes

We can see the light because we know the darkness

Everything has meaning, even campanula in the wind

Each one of us has pain and sorrow

Sheds asecret tear

But drops of your tears will fall to the earth and

Welcome new life into the world again and again with love

Love, true love is to ask nothing in return

Fated love that is meant to last

My love, your gentle gaze

A drop of your soul within me that I adore

Everything has an end, but we'll be reunited

(日本語訳)

真実の愛とは無償の愛

あなたは私の運命の人

あなたの愛 その愛情に満ちた眼差し

闇を知っているから光を感じるもの

全て意味あること 風にそよぐカンパニュラでさえも

人は誰しも苦しみや悲しみを抱え

人知れず涙を流す

でもその涙が大地に落ち

やがて愛ある新たな命をこの世に迎える

真実の愛とは無償の愛

永遠に続くはずの運命の愛

私の愛 優しい眼差し

私の中にあるあなたの魂のかけらを愛し

いつか必ず別れの時が来る でも私たちは再び巡り逢う

平原綾香さんの「ノクターン」という曲です。この方の歌う曲の詩では「Jupiter」も素敵だな、と思いましたがこちらの詩も美しいと思ったのでブログに載せてみました。

You Tubeではこちらから聞くことが出来ます。

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2009年10月 4日 (日)

世界に愛を

昨日、今日と日比谷公園で「グローバルフェスタ2009」というイベントが行われています。残念ながら私は時間がなくて行けないのですが、国際協力は私がずっと興味のあることです。中学生や高校生の時に国際軍縮会議や高校ユネスコ会議に参加させてもらったことがあるのですが、当時の私は今よりももっと未熟ながらもそういったものに参加することで色々なことを考えるきっかけをもらえました。また、私の地元も戦争の時、空襲を受けた地域の一つです。それも、あと一日早く終戦を迎えていれば空襲を受けることはなかった地域。ですから、小学校と中学校では戦争をテーマに調べたり話を聞いたりする課外授業がありました。争いごとの無い世界にするには私には何が出来るのか、そして世界のさまざまな問題を解決するには人間はこれからどうこの地球で生きていけばいいのか。

しかし、色んなことを考えていても、ちっぽけな私には何も出来ない・・・そんな自分の小ささにずっと悩んできました。世界のために何も出来ないのなら生きている意味なんて無いと悲観的に考えている時期もありました。夢と現実にあまりにもギャップがあって、自分を認めてあげることが出来ない・・・そんな時期を経て、今の私があります。前に私は世界で活躍したいということをブログで書きました。しかし、多分、この世界でその役目が今世であるのならば自然にそうなっていくのだという考えに変わりました。「~したい」と思うことは夢を実現させるのに大切なエネルギー源です。でも、それは「私の」夢なのです。世界が幸せになることは私一人の夢ではなく、この世界の生きとし生けるもの全ての中にある大いなる存在が望んでいることです。ですから、私の小我による世界で活躍したいという思いを本当に手放せることがあれば、世界のために何か出来る日が来るかもしれません。私が今出来ることは、日々愛について学び、実行していくことです。

大いなる存在は準備が出来て、時期が来れば、それぞれの人が本来向かう方へと導いてくれることになっています。それを信じること、それは自分を信じ、宇宙を信じ、愛をこの宇宙に放射できる一員になることだと思います。

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2009年9月21日 (月)

プラネタリウム

土曜日にプラネタリウムを見に行きました。癒しをテーマとして、プラネタリウムを見ながら水の音や音楽が流れて、更にはアロマ(今回はローズマリーと蓮の花の香りでした)の香りもしていました。

今の時代の人間の生活では、人間の感覚はどんどん鈍ってしまうのではないかと思います。感じることとは、対象となる物や人の魂に触れることです。魂に触れれば何らかの反応や変化が生まれます。たとえそれが意識上ではなくとも。しかし、表面だけ、使い捨て、の世界では魂に触れる作業を忘れてしまうこともできるのかもしれません。物でも人間でも魂に触れればどんな形でもそこに愛が生まれます。愛を産み、愛に気付き、愛を育む。感覚は人間が愛に触れるきっかけを与えてくれる大切なものだなと、プラネタリウムを見ながら思いました。

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2009年9月14日 (月)

本物の優しさ

私の名前には「優」という漢字が入っています。そのせいか、優しさについて小さい頃から考えてきました。優しさってなんだろう?思いやりってなんだろう?・・・人に優しくしているように見えて、私は本当は自分が嫌われたくないだけの八方美人なんじゃないか・・・色々と今まで考えてきました。

「自分に余裕のある時は慈善であろうと、人に優しく出来る。でも、自分に余裕の無い時に人に優しく出来るのは本当の優しさだ」と言われました。これは私に向けてではなく、大勢の人に向けられた言葉でしたが、優しさとは何かという考え方の一つだなと思って書きました。

私は優しさとは愛に基づく、素晴らしい感情・行動だと思います。ただ、私が今までの数少ない経験から学んだこともあります。それは、優しさと同情は別のものだということです。優しさは相手のことを愛し、本当に相手を思いやっている状態です。だから、厳しいことを言うこともあります。それは本当にその人を愛するがゆえにです。

同情は違います。最初から上下関係が出来上がっていて、可哀想という感情に基づいています。こちらの方は一見相手を思いやっているようで、実は相手の闇の部分を増幅させていきます。人間は苦しいと思ったらそこからなんとか這い上がろうとします。そしてその苦しさから何かを学び、次の段階へと進んで行きます。しかし、苦しいけれど今の状況を変える程でもないという中途半端な居心地の良さを獲得してしまうと、苦しさとその状況(もしくは人)に依存することになり、より状況を悪化させてしまい兼ねません。本来ならば問題を解決するためのエネルギーが、いつ壊れてしまうかわからない危うい状況を維持するために使われてしまうからです。そうなっていくと、本当に解決しなければならない問題は埋もれていき、その問題を直視出来ず、もしくは直視しなくてもよい状態へとすりかわっていき、その人は自分本来の道からどんどん逸れていってしまいます。

優しさは同情や弱さから発するものではなく、愛から生まれます。自分は優しさによって接しているはずなのに、相手がなぜかいつも不満そうで苦しそうだと思ったら、それは自分勝手な思い込みからのものだったのだと心が痛んでも反省して接し方を変えなければなりません。

本当の優しさ、そして愛とはなんなのかを考えていた数年前に読んだ「愛するということ」という本に「愛とは技術である」という文章がありました。私は当時誰からも愛されていないと思い込んでいました。けれども、その言葉を読んで、「人はみんな愛を持っている。でもその愛を表現する仕方がわからないだけなんだ」と解釈し、とても救われたのを覚えています。

自分の優しさを行動にする時、その表現の仕方は本当に愛の表現なのかを確認することも時には必要かもしれません。相手のことを自由にしてあげているか、成長を妨げてはいないか、押し付けてはいないか・・・そして、その結果接し方を変えた時、特に厳しく接しなければならないとわかった時は心が少し痛むかもしれません。でもそれは素晴らしい、愛と勇気ある行動です。その時は相手に恨まれることがあっても、以前書いたように神様は必ずいつも見ていてくれます。愛のある行動であるならば、いつかより高いレベルでの新しい関係を築くチャンスが巡ってきます。

私達は愛の表現を学び、愛になるために、この地球という惑星を選んで生まれてきたように思います。本当の優しさを学ぶのも愛になるため。愛の波動が大きくなるようにこれからも色んなことを知り、色んなことを考えて行動していける人間になりたいと思います。

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2009年8月31日 (月)

幸せはいつもそばに

不幸というのはお金が無いことじゃない

自分が幸福であることに気付けないでいることだ

幸せは自分の外にあるのではなく

内側に見つけるもの

ほんの些細なことにも感動して

そこに幸せを見つけられる人は

生きる素晴らしさを知っている

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2009年8月11日 (火)

大人はもっと輝ける

私は、昨日のブログの最初に「私が子供だった頃にはもっと色んなことに気付き、感じていた」と書きました。それについて考えてみました。

子供はこの世界に生まれてからの経験がまだ少ないので、何にでも興味を持ち、全ての事柄に対して好奇心を抱いて生きています。大人であればなぜそんなことが楽しいのかと思う事でも、それをやった次にはどんなことが起きるのかが見えてしまうことでも、子供は喜んでやってみようとします。しかし、この好奇心と喜びに満ちた生き方が大人になっていくにつれて出来なくなっていってしまうのはなぜでしょう。私が考えるに、大人は生きていく過程の中で経験から「型」を作り上げてしまうからだと思うのです。型は、自分もしくは社会の規則や常識とも言い換えられます。以前に経験したことを今の出来事に当てはめて、同じ対処をする。それでは喜びは得られませんし、結果も見えてしまうでしょう。でも、そうではなくて、今起こっていることは以前とは違う条件で起こり、同じ経験など一つも無いということを思い出す必要があるのです。そして、型を作ることはやめてしまうのです。型を作るということは、自分で自分に限界を作ることなのですから。型を作ることをやめてしまえばもっと視野が広がり、新しい喜びを得られます。退屈なことなど無くなり、全てが新鮮で輝いたものとなるのです。そうやって生きられるようになれば、実は子供の頃よりももっと生きていることが楽しくなると思います。子供の時は言葉を覚えたり、物の名前を知りたいと思ったりと、まだ基本的な段階での喜びです。それが大人になれば、沢山の知識を引っ張ってきて新しい見方を考えつくことができたり、それを役立てて宇宙のために生きることだって可能になるのです。

人間は失敗したことは繰り返さないために、同じような出来事が起こった時には以前の経験を生かして今度は成功させようとして新しい方法や考え方を模索したりして失敗した時の型を壊そうとします。しかし、前に成功したことに対してはその型をわざわざ壊そうとはしないものです。それは、安定を求める人間の心から考えればわからないこともありませんし、私もそうやって無意識に生きている部分が沢山あります。でも、その成功した型も既に過去のものなのです。成功したということは自分は次の段階へ行く準備が調っていることでもあるので、また新しい経験がその先に待っているのです。その新しい経験を与えられて次への一歩を踏み出すチャンスがあるのに、過去の型を当てはめていたらそれはたとえ現世的な成功を収めていたとしても魂の成長とはいえないのです。そうして、次へのステップが踏めないでいると、神様は「もう一歩進む時期だよ」と人間に教えるために乗り越えられるだけの試練を与えてくれます。気付くチャンスは何度も与えられ、それに気付けなかった場合でも成長できるように、宇宙は私達を愛の目でいつも見守っていてくれるのです。楽あれば苦あり、苦あれば楽ありといいますが、「楽」の時期に次へのステップを踏めれば楽あれば更なる楽ありにすることも出来ると私は思うのです。

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2009年8月10日 (月)

子供から学ぶ

私は、私が生まれた時はもっと色んなものに気付き、見えていたような気がします。

大人の階段を昇るにつれて、私の中の子供の心はとても窮屈な思いをするようになっていきました。幼稚園の頃には既に目に見えない妖精や天使の話を周りの人にすると笑われたりしていました。私は今よりも小さい頃の方がとてもプライドが高かったので、人に笑われることに我慢できずそういった話は口にしないことにしました。

でも、「そういう子供の心は忘れてはいけない。ずっと誰にも気付かれないまま内に秘めてとっておこう。必ず大人になった時に私が私であるために必要になるから。」ということはわかっていたので今まで心の奥底に眠らせていました。それがここ数年間、私の中の子供の心を表現できる機会に恵まれ、ようやく意識して眠らせていた心を目覚めさせてあげることが出来たのです。

ただ、大人の自分と子供の自分がバラバラに存在していたため一人の人間の中で共存させるのには時間がかかりました。子供の頃には親にさえも涙を見せることは恥だと思って生きていたので泣くなんてことはほとんどありませんでした。それが、大人になってから毎日のように泣いて子供の頃の分まで涙を流してあげて、やりたいことを自分のためにやる楽しみを教えてあげて・・・ということを続けました。そして今、バランスが大分うまく保てるようになってきて、感情は素直に表現して、自然や妖精や天使などの目に見えない存在とも心を通わせることがいつか出来ると信じているんだということを話すこともできるようになりました。

子供の頃に感じたことや思ったことは純粋な魂の声です。それを否定したり、抑えつけたりするとどこかに歪みが生じてきます。子供は本当に大事なことをわかって生きていると私は思います。今、この瞬間を喜びに満ちた思いで精一杯生きています。この姿こそ、大人は見習った方が幸せに生きられる気がするのです。心が死んでいては生きているとはいえません。心に喜びを抱き、悲しみや苦しみも心のスパイスにして、自分は何のために生まれてきたのか、人間は何のためにこの地球に誕生した種族なのかを哲学してその答えを少しずつでも見つけていけたら素晴らしいと思います。

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