FAIRY

妖精さん、私はあなたがいるって信じてるよ。

大人になったってその思いはずっとずっと変わらない。

そんなのいやしないさって大人たちは言うけれど、それは忘れてしまっただけなんだ。

子供の頃には見えていたはずのものたちを。

会いたいと思ったらいつでも会えるのさ。

心の目で見ればいつでもね。

以前のブログもよろしくお願いします。

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2009年12月 6日 (日)

人間関係は自分に気付ける場

人間関係について私は前までとても悩んでいました。そして、今その時のことを振り返る時期にあるようです。

私は他人から嫌われることがとても恐いという性格です。八方美人だと自分でも思うのですが、本当にとても人からの評価が気になるのです。以前だったら、たとえこの世界でたった一人から嫌われたとしても「自分は生きている価値なんてないんだ」と考えていたと思います。そのことが人間関係にもよく表れていました。私は人のことをよく観察します。しかしそれはその人を知りたいからではありません。言っていることや考え方、行動、色んなことを見て、どうしたらその人に嫌われない私になれるかを判断するためです。「人に認められること=私の存在価値」だったので、人によって話し方や態度、行動を意識して変えて気に入られる自分を演じていました。しかし、そうするとだんだん矛盾が生じてきます。誤魔化すのは嫌なので、その矛盾を自分の中に溜め込んで、そして、本当の自分からどんどん離れていくことも感じていて、自分を見失っていくという苦しさがありました。今振り返ると、結局私は、人間関係とは言いつつも、いつも自分だけのことを考えてきました。嫌われたくないという自分のエゴに従って。だからうまくいかなかったのです。外部の物事に自分を評価してもらう必要など無いのに、それを重要視していた私の学びだったのです。自分を信頼することを学ぶこと。

そこから脱することができたのは、自分を見つめることを教えてもらったからです。一人になって自分と向き合うこと。その時は特定の人以外とはほとんど話しませんでした。その人達に会わなければ誰とも話さないことが数日続くこともあって、最初はとても苦しかったです。人からの評価が絶対的だったのに、その評価がなくなり、それまでの自分の存在価値のものさしが全て無くなりました。絶望というただただ真っ暗なところに一人居る感覚に襲われ、寂しくて虚しくて毎日泣いていました。けれども、毎日泣いて、自分と強制的にであっても自分と向き合うことによって、徐々に、その暗くて何もない「無」の空間に「本当の私」という光が見え始めました。人とのごたごたで埋もれて、聞こえなくなってしまった声が少しずつ聞こえるようになっていきました。それまでの過去を振り返り、赦し、また考えて、行動し・・・その繰り返し作業をずっと続けました。そうすることによって私の求めていた「芯」が出来上がっていきました。その作業は今もずっと続いています。前は暗いことや嫌な過去のことを考えてばかりでしたが、今では前向きで楽しい計画について考えてウキウキできるようになりました。

そして最近、人に対しての考え方が変わっている自分に気が付きました。いつも一人で自由に過ごしているのですが、たまに話しかけられたりすることがあります。そうするとその相手の人の中に自分がいることに気が付くのです。素敵だと思う部分にも、嫌だな、と思う部分にも。素敵だな、と思ったら「私にもこういう素敵な部分があったんだ」と再確認することが出来ます。逆に、嫌悪感を抱いたり、怒ったりしたら「あ、私はこういう自分の一部をまだ赦していなかったんだ」と気付くことが出来ます。人と向き合うこと。それもまた自分と向き合うことなのだとわかりました。更にそれは、人と話したりして直接関りを持った人に対してだけはたらいているものではないことが自分を観察していてわかりました。道で通り過ぎていく人をふと見ながら、あれは以前の私かもしれない。そんな時もあったんだな・・・という目で見るようになりました。すると、自分とは全然レベルの違うことに対しては何の感情もなく冷静でいられるのに、まだ自分の中で未消化なままであったり、赦せない部分があったりすると、他人を、しかも見知らぬ何の関係もない人を見ているだけのに何らかの感情が込み上げてくるのです。それは大抵嫌悪感や怒りなのですが、それを考えると、他人は皆私の鏡で、私は世界に自分を投影して生きているのだな、とよくわかります。

人間関係は沢山の人と結ぶ必要などありません。人数が多ければ「良いこと」なわけではありません。人間関係の中でいかに自分を表現し、成長し、本当の魂を思い出せるか。相手に求めるのではなく、自分を高められるか。そんな人間関係ならば、本物なのだと私は思います。

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2009年11月29日 (日)

少女は翼がほしいと思っていた

かごの中から飛び立ってゆける翼を

どこまでも自由に飛んでゆける翼を

少女は気付いていなかった

背中には美しく力強い翼があることを

広げてみればいつでも飛べたのに

気付いていなかった

飛べないと

飛ばないと

決めていたから

さあ、少女よ

今こそ飛び立つ時だ

恐れることはない

翼を広げ

新たなる光と愛の世界へ

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2009年11月26日 (木)

本当に望むこと

突然ですが、もし今「あなたの寿命はあと24時間です」と言われたら、残りの24時間、何をしてどう過ごすでしょうか。

答えは人それぞれにあると思います。

さて、思い浮かんだことについてここで少し考えてみましょう。

最初にパッと思い浮かんだこと。それこそが今の自分が本当に望んでいることです。やりたいと思っていても抑制していること、やりたいと言いながらも先延ばしにしていること。それから、本当に大事だと思っていること、大切な人がわかるかもしれません。更には、魂の声に気付くかもしれません。

ほとんどの人は自分が死に直面することで、やっと自分を見つめ、「生」に関して目覚め、意識するようになるのではないかと思います。この前も「人はしてしまったことに対しての後悔よりも、しなかったことに対しての後悔の方が多い」と聞きました。人間とはおかしなもので、いつかは死が訪れると頭ではわかっていながら、でも明日、まさか自分にそれが起こるとは意識せずに毎日をなんとなく過ごしている人が多くいます。そうしていつの間にか歳を重ね、老いてから「あれもすればよかった、これもすればよかった・・・」と後悔するのかもしれません。

また、私達はこの世界に生まれてきたいと思ったから今こうして生きています。それなのに、早く時間が過ぎないかな・・・と思って過ごすことは、死を望んでいることと同じだと私は思うのです。

そうなりたくはないと思ったなら、答えは簡単です。今すぐに「先ほど思い浮かんだこと」を実行に移すことです。死ぬ24時間前まで先延ばしにせず、「今」するのです。24時間前にできるのですから、今だってやろうとすればできます。やれない理由などいりません。今やらなければ明日もやりません。明日やらないことを1年後、10年後にやっているでしょうか。また、すぐに実行に移せなくても、それに向けての準備はできるはずです。口ではやりたいと言っていても、それに対して何もしていなければ、その延長線上の人生には何も起こらないことはわかります。

この作業は一度始めれば、意識して目覚めて生きるという意味がよくわかります。一瞬一瞬の積み重ねが自分の人生を創り上げている。それをわかっているようでわかっていなかった状態から、「私は生きているんだ」という実感と感謝の気持ちが溢れてきて、どんどん生きることが楽しくなります。そして自分も好きになって、他人にも愛を持って接することができるようになっていきます。そうすると、愛は循環し、予想もしていなかった素晴らしいことが起こるようになっていきます。このように、目覚めていなかった時には奇跡としか思えなったようなことにもどんどん出会うようになるのです。

「あなたの寿命はあと24時間です」と言われたら何をしますか?

「いつも通りに」

いつきかれても自信を持ってそう言えるようにこれからも生きていこうと思う私です。

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2009年11月14日 (土)

状況は自分の心の鏡

私はこの前、手相をみてもらいに行きました。特に何か占ってもらいたいことがあったわけではないのですが、どの線が何の線なのか、本を読んでもよくわからなかったので解説してもらうために行きました。沢山質問をして、教えてもらったことを全部紙に書き出してまずは一通り満足。ところで、どうして手相で過去のことや現在のこと、未来のことがわかるのでしょうか。手相は今の自分を映す鏡ということなのでしょうか。そういえば以前、病気は心の状況を映し出したものということをこのブログで書きました。病気が心の鏡として身体に現れるのであれば、今の自分の状況が身体の一部である手に現れてくるのもなんとなく納得できます。手相は日に日に変わっていくらしいので、これは人間が変化し続けるからなのだと思います。

人間の身体は他にも色んなことを教えてくれます。例えば、女性の月経前の症状というのは、それまでの1か月間をどのように過ごしたかを反映します。無理をしたりイライラして身体にストレスを溜め込むと痛みなどの症状が現れます。また、自分の中の女性性を否定している場合も同じような症状が現れたりします。また、自分に生きる価値なんて無いと思って過ごしていると、その思いに身体が反応して生きるエネルギーがどんどん無くなっていきます。これらは身体に起こることですが、自分の心の状況を知るアイテムは身近に沢山あります。

例えば、今の家の中の状況。心にゆとりがなくて焦っていると部屋に気を遣えなくなるので乱雑になっていきます。それから、タイミングが合わなくてなんだか上手く物事が運ばない・・・という時。それは心が注意して!といっているのかもしれません。逆に、最近とても幸せなことが続いて起こっているな、ということもあるでしょう。そういう時というのは、自分では気付かないとしても心が落ち着いていて、愛をこの世界に放出している心が周りの状況に反映しています。また、人は自分と似ている波動の人を引き寄せます。それも今の自分の状況を映し出しているので心の豊かさの指標になります。私は最近、日々何かをして、そしてたまに自分の周りの状況を客観的に観察して、自分の心を見直すようにしています。良い悪いと判断するのではなく、ただ観察して、変えた方が気持ちよく幸せに過ごせるな、と思うことがあったら変えます。また、焦って無理に何かをしようとすることはやめ、その状況を受け入れることにしています。例えば電車が停まって家に帰れないという状況に遭遇したとしても、その状況には何か意味があって、宇宙が私に何かを伝えようとしているのだろうと思うようになりました。そのように宇宙や大きな存在に身を委ねるようになると、新しい発見があったり、更には自然と何とかなる状況へと、まるで幸運といえることが起こったりします。最初は困ったな・・・という状況が一変して、その出来事があったおかげでより素敵なことが起こった!ということもあります。こういったことは、状況が原因ではなく、心が原因で状況は結果であるということに繋がります(恐れを手放し、愛を選ぶ)(世界は心の投影)。

多分、悟りを開くというのは何か特別なことをしたからといって開けるものではないのだと思います。悟りを開くには、身近なものにどれだけ気付けるかであって、無意識をどれだけ意識化できるのかだと思います。だから成長していくと今までは気付けなかったことにも気付けるようになっていくのだと思います。これは誰にでもできる作業です。お金が無くても、特別な環境でなくても、心を落ち着けて自分と向き合えば誰もが幸せな心を持ち、そして幸せな状況を引き寄せられるようになるのです。身体や身の回りの出来事など、色んなことを、自分を振り返る材料にできたら自分の中の大きな存在に気付き、成長できる楽しい毎日になると思います。

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2009年11月11日 (水)

家族から学ぶこと

私は小さい頃、かぐや姫のビデオをテープが切れるほど繰り返し毎日見ていました。いつかきっとかぐや姫のように、誰かが月から私を助けに来てくれるんだと思いながら見ていたことを思い出します。今思えばたいしたことではないけれど、当時の私は生きることに関しては今よりも必死な心境でした。ほぼ毎日、母親と喧嘩または叱られるので、母親に負けないという思いがとても強く、喧嘩した内容について悩んだり幼いながらも傷ついた心を自分で癒すことに全エネルギーを使っていました。その時の言葉は小さい頃に言われたことだったけれど、成人するまでずっと頭に残っていたので、「しなければならないこと」として、私の中にはこびりついていました。

幼稚園児だったある日、私は喧嘩することに疲れてしまいました。悩むことも、傷を癒すことも、もう私のエネルギーだけでは無理でした。でも私は信頼する人にしか自分のことを話したくない人間なので、誰にも相談しないで封印することにしました。そして、怒られても全て自分が悪いことにして、自分は悪くないと心の中で思っていたとしてもとりあえず「ま、いっか。それで丸く収まるなら」と怒られた理由がわからなくても謝ることにしました。でも嘘をつくのは嫌な性格なので、なんとかして本当に自分は悪いことをしたのだと思わせようとあれこれと考えました。そうでなければ、なぜ自分が悪いのかもわからずに怒られたことに対して怒りを感じ、憎んでしまうと思ったからです。でも、行動や考え方のほとんどを否定されて強制させられるのにはやっぱり反抗する気持ちもありました。そんなことを親に対して思ってはいけないと教えられていたので、一生懸命その思いを抱く私はなんて悪い子なんだろうと思うようにもなりました。それに、親同士の愚痴を聞く役割もあったので両親の間で板ばさみになってはいたけれど、両方の言い分を聞いている私が家族のバランスを保たなきゃと思っていました。この世界には私の安心して過ごせる場所はないんだな、と一人毎日ベッドの中でひそかに泣いていたのも、今となっては懐かしい記憶です。

私の中には怒りがあります。でも、家族を愛しく想う気持ちもあります。そして、この家族に生まれてきたからこそ小さい頃から人の気持ちを考えることを学ぶことが出来ました。憎んだ時期もあったし、楽しいこともあったし、悲しくて絶望していた時期もありました。そんな沢山の気持ちを私は家族から学び、そして今も学び続けています。人間は変わっていきます。親も、姉妹も私もその中に含まれます。過去にしがみつく幼い私を解放し、今の親を見る目を持つことが今の私がすることです。

世界から争いごとをなくしたければ、まずは自分の心の中から争いごとをなくすこと。そのためにも、私は少しずつでも赦すことを学ぶことが必要だと感じる最近です。

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2009年11月 6日 (金)

新しい時代へ

愛を見よ

愛を語れ

愛になれ

真理を見よ

真理を語れ

真理となれ

光を見よ

光を送れ

光になれ

「神は私にこう語った」アイリーン・キャディ(著)より

今私ができること。一人一人が心がけて出来ること。それは本当に身近なところに沢山ある。そう、それに気付けば今この瞬間から誰もが変わることができる。誰もが愛を抱き、光を送ることができる。変わることを恐れずに、愛の一員として生きる勇気を持とう。

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2009年10月25日 (日)

自分から見た私、他人から見た私

私の中に内在する怒り。それを赦すことが私の課題であると半年前にブログに書きました。その後も赦すことが出来なくて、心の中のどこかでずっと悩んでいました。そうして最近ようやく少しずつ見え始め、辿り着いたのが「個としての私」についてです。私が怒る時。それは他人から馬鹿にされたと感じる時、やりたいことが出来ないでいる時、思うように事が進まない時・・・私の心の中には本当は沢山の怒りが渦巻いています。本当はその怒りを見せまいとして必死だったりする時も多々あるのです。事実を少しでも愛の方向へと変化させたければ認めて受け入れればいいのです。だから私は怒りを抱いている自分を認め、赦すことから始めています。そして、私はこうありたい、こう他人から見られたいという固定観念を壊しています。私は自分は完璧でありたいと考えています。人からは尊敬されたいと本当は思っています。欲の在る、本当に平凡な人間なのです。今までは偉そうにする自分を人に見せるのがいけないことだという社会的な理由で表面上は低姿勢で人に媚びるような態度をとったりすることもありましたが、それはあくまでもカモフラージュにすぎないものでした。だから本当の私はとても傲慢な人間です。それが私のエゴの本性なのです。エゴは私が私であることを望みます。(エゴについては「ニュー・アース」という本に色々と書かれてます。この話題はまた今度にしようと思います)。これは良い、悪いと判断することではなく、自分を責める必要もなく、単にそうなのだと認めることが次の一歩を生みます。この2か月間はこの作業に久しぶりに泣きながら取り組みました。何の涙なのかはわからないけれど、悔しい、悲しい、怒り、色んな思いの涙だったのだと思います。

まだまだ過程なので「私という個」についてはよくわかっていません。でも、わかってきたこと、その過程だけでも書いておこうと思います。

この世界にはそれぞれの人がそれぞれに定義した「私」が存在します。こうである、こう在りたいという自分から見た自分の姿、こういう人であるという他人からの姿、そのどれもが全てそれぞれの人間の頭によって作り上げられた「私」という存在です。頭と心によって作られた「私」は幻想です。そして私はその幻想の「私」に対して怒っていたのです。自分の理想と他人が作り上げた「私」が違う、と。

では、本当の「私」とは何か?と考えると、その真実は「私は在る」ということのみです。それが全てです。何をしても、どんな性格であってもそれらは魂の表現にすぎず、その1つ1つはとても重要でありながらも、それらに縛られることなくまた「今」の私を表現し続けています。

私という個は、聖なる私と共にいることをいつも意識すること。在るために存在し、それは「今この瞬間」を生きることで表現することができます。

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2009年10月18日 (日)

「私」が存在する価値

私って何者?と自分自身に問うとしたら、なんて答えるでしょうか?名前や性別、年齢、職業、答え方は色々あります。

私の場合の答えは、自分は何者か?を問うと、それはまず自分は何のために生きているのか?からスタートしていました。明確にこのために生きている、存在しているという答えを見つけたくて、でもそれが見つからなくて焦っていました。つまり、私の場合は「何をしているのか、何を成し遂げたか」で自分の存在価値を決めていました。ですから結果が出なければ存在価値は無くなるのです。

でも、生命が存在しているということに意味は必要なのかと考えるようになりました。何かを達成し、目的を持って生きる。それが存在していることなのか。また、名前や性別や持っている物などが本当に人間の存在に付加価値を付けるのか。それらはみな、人間が意味のあることとしているだけで、本当は存在に価値を付ける必要すら無いと思うようになってきました。人間は色んなものに名前や価値を付けたがります。物を沢山欲しがります。やりたいことが色々あります。でもそれらは死ぬ時には全てこの世に置いていきます。置いていって何も持たない魂だけの状態、それが本当の私です。何かによって定義され、制限されるものではなく、ただ存在していることが私なのです。存在していること、それはとても幸せなことだと思います。

物は私達人間を豊かにしてくれるような気がします。けれども実際はどんなに物を持っても心は満たされません。それは自分という存在価値を無意識のうちに物に見出そうとしているからです。まだ足りない、まだ足りない、その思いを物で満たそうとするのです。でもそれは根本的な解決にはなりません。また、他人からの評価を気にすることも、他人から認められれば自分の存在価値が認められると思っていることになります。やはりそれも自分の存在を自分で否定しています。自分との対話なくして、物や出来事や他人への同一化に終止符を打つことは出来ないのです。物を持つことが悪いことなのではなく、物が自分に存在価値を与えているわけではないということを認識し、自分の存在を自分で認めて愛してあげればよいのです。

しかし、定義されず、名前すら無いということは、他の物(者)と区別されないということにもなります。この世に存在している時は定義されていますが、本質は色々くっつけたものたちを取り払った魂の状態。光みたいなイメージが私にはあるのですが、「私」という「個体」の存在とは特殊な状態のような、なかなかまだ説明できないのですが、最近では私が私個体として存在していることが不思議に思うことがよくあるのです。このことはいずれわかる時が来るかもしれないということで、保留しておこうと思います。

全ては生かされている存在です。存在しているということは素晴らしいことです。在るという状態は自由であり、何者(物)にも定義されず、制限されず、宇宙と一体になって愛を表現する機会を与えられている状態です。私は何者か?その問いを自分に投げかけ、自分と対話することで本当の自分の姿を思い出すという作業をこれからも続けていこうと思います。

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2009年10月 6日 (火)

ノクターン

Love, true love is to ask nothing in return

You are my destined soul mate

Your love, adoring eyes

We can see the light because we know the darkness

Everything has meaning, even campanula in the wind

Each one of us has pain and sorrow

Sheds asecret tear

But drops of your tears will fall to the earth and

Welcome new life into the world again and again with love

Love, true love is to ask nothing in return

Fated love that is meant to last

My love, your gentle gaze

A drop of your soul within me that I adore

Everything has an end, but we'll be reunited

(日本語訳)

真実の愛とは無償の愛

あなたは私の運命の人

あなたの愛 その愛情に満ちた眼差し

闇を知っているから光を感じるもの

全て意味あること 風にそよぐカンパニュラでさえも

人は誰しも苦しみや悲しみを抱え

人知れず涙を流す

でもその涙が大地に落ち

やがて愛ある新たな命をこの世に迎える

真実の愛とは無償の愛

永遠に続くはずの運命の愛

私の愛 優しい眼差し

私の中にあるあなたの魂のかけらを愛し

いつか必ず別れの時が来る でも私たちは再び巡り逢う

平原綾香さんの「ノクターン」という曲です。この方の歌う曲の詩では「Jupiter」も素敵だな、と思いましたがこちらの詩も美しいと思ったのでブログに載せてみました。

You Tubeではこちらから聞くことが出来ます。

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2009年10月 4日 (日)

世界に愛を

昨日、今日と日比谷公園で「グローバルフェスタ2009」というイベントが行われています。残念ながら私は時間がなくて行けないのですが、国際協力は私がずっと興味のあることです。中学生や高校生の時に国際軍縮会議や高校ユネスコ会議に参加させてもらったことがあるのですが、当時の私は今よりももっと未熟ながらもそういったものに参加することで色々なことを考えるきっかけをもらえました。また、私の地元も戦争の時、空襲を受けた地域の一つです。それも、あと一日早く終戦を迎えていれば空襲を受けることはなかった地域。ですから、小学校と中学校では戦争をテーマに調べたり話を聞いたりする課外授業がありました。争いごとの無い世界にするには私には何が出来るのか、そして世界のさまざまな問題を解決するには人間はこれからどうこの地球で生きていけばいいのか。

しかし、色んなことを考えていても、ちっぽけな私には何も出来ない・・・そんな自分の小ささにずっと悩んできました。世界のために何も出来ないのなら生きている意味なんて無いと悲観的に考えている時期もありました。夢と現実にあまりにもギャップがあって、自分を認めてあげることが出来ない・・・そんな時期を経て、今の私があります。前に私は世界で活躍したいということをブログで書きました。しかし、多分、この世界でその役目が今世であるのならば自然にそうなっていくのだという考えに変わりました。「~したい」と思うことは夢を実現させるのに大切なエネルギー源です。でも、それは「私の」夢なのです。世界が幸せになることは私一人の夢ではなく、この世界の生きとし生けるもの全ての中にある大いなる存在が望んでいることです。ですから、私の小我による世界で活躍したいという思いを本当に手放せることがあれば、世界のために何か出来る日が来るかもしれません。私が今出来ることは、日々愛について学び、実行していくことです。

大いなる存在は準備が出来て、時期が来れば、それぞれの人が本来向かう方へと導いてくれることになっています。それを信じること、それは自分を信じ、宇宙を信じ、愛をこの宇宙に放射できる一員になることだと思います。

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